今日は仕事の後に20分ほどランニングをしていました。 2日前の雪が道路の端に残っていて、とても寒々しいランニングでした。 一人でランニングをしていると、頭の中に突飛なものが現れがちです。 それも部屋で動かないでいたら出てこないであろうものです。 思考のランダムネスを高めたい気持ちがあるので、ランニングは自分にとって必要な行いなんだなあ、と思いました。

今回のランニングでは、頭の中で たま鐘の歌 が流れ始めました。 「ランニング」で石川浩司のことを思い出したわけではありません。 ふと「なぜタイトルは『鐘』なのに、歌詞は『夜のチャイム』なのだろう?」と思ったのです。

たまは自分のお気に入りのグループの一つです。 ごく稀に「このグループの作品は全て聴かなくてはならない」と思うことがあるのですが、たまはその中の筆頭です。

たまの好きなポイントを言語化しようとタイピングし始めたところで、思ったよりも困難であることに気がつきました。 分かりやすいものを一つ挙げるとすれば、曲も歌詞も好きだということです。 なんだかなんの主張にもなっていないような気がするのですが、自分は基本的に「曲は好きだが歌詞はそこまで… (and vice versa)」ということが多いので、自分にとってみれば割と強い主張です。

たまはメンバー4人 (柳原脱退後は3人) が全員作詞作曲をするので、歌詞のテイストも4通りあるのですが、自分は特にギターの知久さんとベースの滝本さんの歌詞が好きです。 今回紹介する『鐘の歌』は知久さんの曲です。 知久さんの歌詞の特徴としては、使っている単語は子供向けかと思うほど易しいのに、内容は物凄く残酷だったり寂しかったりすることだと思います。 純粋であるがゆえに刺さるものがあります。

この曲の歌詞を読んでみると、死んだ子供たちが幽霊になって遊びに来る様子を表現しているとの解釈ができると思います。 今回ランニング中に頭に飛び込んでいたのは、この曲のど頭の以下の歌詞です。

夜のチャイムが鳴ると
空からたくさん降りてくる

ここで冒頭の問いを再掲します。 なぜタイトルは『鐘』なのに、歌詞は『夜のチャイム』なのだろう? 別に『夜の鐘が鳴ると』と歌っても節としてなんの違和感もありません。 一つ思いつくこととして、『チャイム』という言葉の響きがとても曲の雰囲気や知久さんの歌声にマッチしていることがあります。 脳内で『夜の鐘が鳴ると』という歌詞を再生してみると、なんだか弱いというか、なんということもなく流れていってしまうような、そんな感触があります。 ここであえて『チャイム』という破擦音を入れることで、良いアクセントになっています。

純粋な音の観点を超えて、意味の観点でも考えてみます。 今回の曲のテーマは『子供』であり、歌詞の中ですべり台やジャングルジムが登場することを考えると、『学校のチャイム』のことを指しているようにも思われてきます。 そうなると確かに『鐘』というのはおかしいし、ここは『夜のチャイム』という表現がしっくり来ます。

さて、こうなると必然的に別の疑問が生まれます。 なぜタイトルは『鐘』であり、『チャイム』ではないのだろう? 歌詞をいくら読んでみても、『鐘』らしい単語は『チャイム』しかなく、なぜわざわざ『鐘』という単語をタイトルに据えたのか、考える必要があります。 ここで思い出したのは、この曲が『子供の死』をテーマとしていること。 鐘というものにはいろいろな役割がありますが、宗教的に死と結びつく象徴でもあります。 例えばお寺でよく見られる梵鐘は、法要の開始の合図として使われます。 この曲のテーマにより直結したタイトルにするならば、『チャイムの歌』ではなく『鐘の歌』というのも納得がいくのではないでしょうか。

この曲のハイライトはなんと言ってもクライマックスでハイトーンボイスで歌い上げられる以下のフレーズでしょう。

それはみんなさかな釣りに行っちゃったのだから
さがさないで さがさないでよ

三途の川に旅立って行くことを『さかな釣りにいっちゃった』と表現しているのではないか、と個人的には解釈しています。 やや脱線ですが、『さかな』と『さがさないで』でなんとなく言葉遊びしているのかな…とも思えます。 この辺りが憎いなと思います。

知久さんは地声が高いですし、裏声でここまで高音で歌い上げることは珍しいです。 それだけ気持ちが入っているような印象を受けますし、感動的かつ開放的なエンディングなのですが、それが却って物凄く寂しいのです。 なぜ子供たちは死ななくてはならなかったのか。 なぜ幽霊になって戻ってくるのか。 いろいろな想像が膨らむ曲です。