ベイカーベイカーパラドクス
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「ある人の容姿や趣味、人柄、口癖まで思い出せるのに、名前だけ思い出せない」現象のことを「ベイカ-ベイカーパラドクス」と呼ぶそうです。 Wikipedia の説明によれば、人の知識はシソーラス的なネットワーク構造を有しているため、名前のような恣意的な概念は他の概念と結びつきにくく、貧弱なネットワークしか構築できない、とのことです。 これはあくまで一つの説だとは思いますがなかなか面白い話だと思いました。
関係しそうな話として、自分は音楽が好きな割に、曲のタイトルやアーティストの名前を覚えるのが苦手です。 ものすごく好きな曲でもう何度も聴いているのにいまだに名前を覚えていないという曲が沢山あります。 特に国外の音楽に顕著で、英語以外の言語だと特に厳しいものがあります。 例えば以下の曲はかなり何度も聴いているのにタイトルを全く覚えていませんでした。
もちろん、だからといって自分にとってその曲の価値が失われるわけでは全くありません。 自分はとにかく全体として聴いていて面白い!と感じられる音楽が好きで、曲のタイトルについてはいっそどうでも良いと思っている節があります。 これに付随して歌詞なんかもほとんど聴かないことが多いです。 例えば平沢進は好きですが、歌詞について考えたことはほとんどありません(こういうのは邪道と思われるかもしれませんが)。 基本的に音楽のメッセージ性?みたいなものには無頓着で、面白いことをやっているならそれで良いと思ってしまいます。 プログレが好きな時期もありましたが、コンセプトアルバムとしてのメッセージにはほとんど興味が無く、演奏技術や曲そのものの楽しさ・情感に感動を覚えていました。
ただ最近は少し視野を広げていて、ちゃんと歌詞も聴いてみることが増えました。 こうやって聴いてみると曲に対する感動が一層増し、歌詞もセットで一つの作品だったんだなあという気持ちになります(当たり前)。 何よりだんだん曲とタイトルと結びつくようになっていって、タイトルを覚えられるようになってきましたし、タイトルまでセットで一つの作品だったんだなあという気持ちになってきました(当たり前)。 覚える必要があるのかというとよく分かりませんが、まあ人とコミュニケーションを取るときには名前を知っていた方が便利です。 でも人と音楽談義をする気もないので、やっぱり覚える必要は無い気もしてきました。
結論、歌詞のある音楽は歌詞もセットで一つの作品であることは認めつつも、歌詞が全く分からなくても心に響くような音楽がやっぱり好きだと思います。 名前は無くても、便利な言葉で人と共有できなくても、それでも自分の心に残るものを大切にしたいものです。